イディッシュ文化の華、クレズマー音楽

シャガールの描くクレズマー楽師が演奏したのは、“賑やかなダンス音楽”だったのでしょうか?―それは先唱者ハザンの朗誦に由来する、神に捧げる祈りの音楽の系譜に連なるものでした。アシュケナジーム・ユダヤ人固有の音楽遺産とは

"ドイツ系ユダヤ人、アシュケナジームがかつて1000万人規模で居住した中東欧のイディッシュ語圏では、シュテットルと呼ばれる共同体で様々な音楽文化が花開いていた。重要な宗教的儀式である結婚式では、クレズメルと呼ばれる楽師たちが式の様々な場面に花を添えた。シャガールの描く結婚式の場面にはこの楽師たちがしばしば登場する。《ロシアの結婚式》(1909年)では、式場へと向かう花嫁の一行をクレズメルが先導している。また《演劇》(1920年)では、中央のバドフンと呼ばれる式進行を司る男性の傍らにいる新郎新婦や参列者は一様に目頭を押さえている。楽師の姿はないが、ここではバドフンが、花嫁に少女時代との決別と結婚生活の労苦を悟らせて泣かせる儀式が行われ、カレ・ヴァヴェイネンという情感豊かな音楽が演奏されている。このようにクレズメルは、結婚式の各場面で様々なジャンルの音楽を演奏し続けた。
彼らのレパートリーの多くは離散地の他の民族音楽から借用されたものだが、その表現方法は先唱者ハザンの歌唱法に由来する。ハザンの朗誦は神への祈りである。感情の昂ぶりを、ビブラートや嗚咽のような装飾音で表現する作法はユダヤ人固有のものである。クレズメルもこの作法を器楽演奏に応用し、結婚式という厳粛な宗教的儀式において、世俗的な歌舞音曲とは一線を画す神聖な響きで場を満たした。
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歴史に翻弄されたクレズマー音楽

"ところでクレズマーとはクレズメルklezmerの英語発音である。かつてシュテットルでは年長者が共同体の中心であったが、アシュケナジームが20世紀に米国へと大量移住し、急速にアメリカ化するなかで若者が文化の中心となる。それに伴いレパートリーも若者の好むテンポの速いブルガールなどのダンス曲が増え、神聖な響きは後退する。他のポピュラー音楽の流行にも呑まれ1970年代には存続の危機にあったが、移民二世の音楽家によって復興された。現在は、ホロコーストによりユダヤ文化が消滅したかつてのクレズメルの故郷、中東欧でも復活した。
イスラエルではイディッシュ語文化よりヘブライ語文化を重視したためその継承は途絶えたが、近年その価値が見直されている。メロン・スタイルと言われるイスラエル独自のクレズマーは、シュテットルのそれとはレパートリーの面ではほとんど共通性がないが、ハザンの歌唱法由来の表現作法はほぼ変わらず継承されており、その点でユダヤ固有の音楽性は堅持されている。"

年配の男性人の肖像画

©Shendl Copitman

樋上 千寿 Chitoshi Hinoue

"クレズマー演奏家、美術史家。世界最大規模のクレズマー・ワークショップYiddish Summer Weimarに2005年から毎年参加、主宰者でクレズマー演奏家のアラン・バーン博士らにクレズマー音楽を師事。シャガールの作品解釈を究めながら、クレズマー音楽の習得と普及に努めている。2016年9月NPO法人イディッシュ文化振興協会を設立。著書に『ああ、誰がシャガールを理解したでしょうか?』(圀府寺司他と共著、大阪大学出版会、2011年)ほか。

演奏会情報:
2021年2月21日に、両国シアターカイにて「東欧ユダヤ音楽・クレズマー演奏会:シャガールが愛した、故郷の旋律」を開催。問合せ:シアターカイ=電話03-5624-1181"