不思議な子ども(神童) 下
🄫Yuki Hashimoto
「なあ」タクシーの運転手がいった。「ちょっといいかな。エンジンをかけっぱなしにしたまんまだから。待っててくれ、いいな」
僕がうなずくと、運転手は立ちあがった。カフェの大きなウィンドーごしに、運転手が車のエンジンを止め、違反キップを切ろうとしていた交通巡査とかけあい、それから道の反対側に車を動かして止めるのが見えた。こっちに向かいながらシャツのポケットにキップをしまうのが見える。カフェに戻ってくると向かいに腰をおろし、煙草に火をつけた。僕は呆然として、舌で唇をなめた。自分が秘密を打ち明けているこの男は、何者なんだろう。言葉を尽くして表現したところで──見知らぬ、ただの男。だが、自分に起きたことを話せる、唯一の人物なのだ。
「ナグリスは辞任して半年たち」僕がしゃべり出すと、見知らぬ男は椅子のなかでくつろいだ。
「そうやって核弾頭の日本向け売りこみを阻止した──もし、彼が阻止していなかったら、周知のとおり世界戦争に突入していただろう。僕は、偶然ナグリスに会った。当時、僕はキャリアを上りつめて『マコール・リション』の報道局長を任せられそうなところまでいっていた。
ナグリスは変わり果てていた。顔は黄ばみ、髪は抜け落ち、眉もまばら、トレードマークの短気も消えていた。しばらく後をつけたが、あてもなくうろついているに過ぎない、と納得せざるを得なかった。歩いてるだけだった。別に驚くほどのことでもない。僕も他の記者連中も、辞任して以来、ナグリスは意気消沈し切っていると知っていた。日本に核弾頭が売却されたかどうかも、世界戦争が勃発したのかどうかも、ナグリスには確かじゃなくなっていた。目的を達した直後に、辞任を撤回すべきだったと思っていたのかもしれない。
ナグリス夫人は、僕みたいに飛び抜けたトップ・ジャーナリストしか知らない事実だが、人類のためのナグリスの苦闘ぶりが大々的に報道されているあいだは、夫の苦闘を支えていた。だが、投光器が夫妻の家を照らさなくなり、安息日の午後の静かなガーデンパーティがなくなり、記者や一般支持者がドアチャイムを鳴らさなくなって間もなく、大臣夫人としての権利を繰り返し夫に要求するようになった。はじめは品よく、ここで一言、そこでチクリというふうだったが、そのうち前大臣とまったく口をきかなくなってしまった。
ナグリスは辞職して政治の舞台を退くと、退職金も年金も断り、蓄えを使って人通りのない場所に八百屋を開いた。そして、八百屋の運営を、見込みのない息子にやらせた。見込みがないってのは、30歳になってもまだ自分じゃ何もできなくて怠け放題の、両親におんぶにだっこの、赤ん坊みたいな奴だったからだ。息子ははじめのうちはいろんな野菜を売っていたが、だんだん父親に内緒で八百屋をレコード店に変えだした、という噂だった。店は目がまわるほどの大成功で、一家に金が舞い込んだ。だがエリヤフ・ナグリスは、野菜にも金にも関心がなかった。まったくの圏外にいた。顔を見ればわかった。歩き方でも察しがついた。落胆し切って、しょんぼりしていた。
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