首相が撃たれた日に

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©Michal Endo Weil

 首相が撃たれた日、ぼくは家を探していて、そのことをまったく知らなかった。3日たって教えられたが、それでも、ぼくは無関心だった。どっちにしても、この国じゃ、撃って、政治の話をするだけで、ぼくはそのどっちにも関心がない。
 建物の前で、ぼくは立ちどまった。1階は小さなコーヒーショップ、2階から上はアパートになっている。今もそのままの、ひどく風変わりな建物だが、この話の頃にはいろんなことがありすぎて、息が詰まりそうだった。夏のまっさかり、人々は汗のなかで身動きし、大声でくだらないことばかりしゃべり、夜にはビールをあおった。ぴかぴかした銀色の蛇口から、でっぷりと太った腹にビールがじゃんじゃん注ぎこまれ、暑い夜々、人々はさかんに動きまわり、なんだかんだと大声でしゃべりまくっていた。そろそろ雨季の訪れを待ちのぞむ頃だなんてことには思いがおよばず、心は乾き、空気はじっとり湿って暑く、だが、雨乞いをするかわりに、みんなはビールをあおった。おかげで、その年、雨季の訪れは遅かった。そんなに前のことじゃない。
 信号が変わるのを待ちながら、ぼくは建物をながめた。兵役時代からの雑嚢(入隊時に支給される、衣類や雑貨を詰める円筒形の袋)が荷物でふくれて肩に食いこんだが、いちいち降ろしたり背負いなおしたりするのは面倒だった。コーヒーショップの上には部屋がたくさんあって、安く借りられる。キチネットがついているし、たいていの部屋にはトイレもついている。兵士や大工仕事の日雇いや、町に流れこんできた新入りが借家人だった。老人が3人いて、そのうちのふたりはひと部屋に同居していた。夜になると、ベイトシャン(ヨルダン渓谷に近い町)から来た女たちが声高にセックスし、大工仕事の日雇いたちはそれを聞いてオナニーにふけったが、老人たちにはきつかった。
 曲がりくねった廊下に面して、床の高さが少しずつ違う部屋が並んでいる、変わった造りの建物だった。部屋の造りもぜんぶ違っていた。どの部屋も安かったが、老人たちを除くと、誰ひとり4か月と居つかなかった。その町で最高という場所じゃない。だが、その2日前にぼくは仕事場をなくし、その24時間後には住んでいた場所もなくしていた。選択の余地はあまりなかった。
 建物はまるまる、コーヒーショップもアパートも、ディナという名の女性のものだった。ディナは30歳ぐらい、建物は祖父の遺産だった。ぼくは彼女をよく知っている。彼女の弟と兵役がいっしょだったのだ。ディナと弟はだいぶ年が離れていたのに、とても仲がよかった。数回、ふたりがいっしょにいるのを見かけたことがある。彼が亡くなる前だった。ディナといっしょだと、急に彼は10歳も老けて見えた。ふたりは、妻子にさえ内緒のことを口にする秘密諜報部員みたいにひそひそしていた。
 ディナの弟はアメリカに旅行に出かけ、80人の死者が出た1983年のジョージア州アトランタ上空の航空機事故で死んだ。彼女には寄りすがれるものがまったくなくなった。彼女は浴室にはいって睡眠薬を50錠あおり、それから念のため、弟の大きなコマンド・ナイフで血管を切った。だが、ときとして同じ場所にふたりの人間が同時に存在することが許されないように、ふたりの人間が同時にこの世から姿を消すことも、ときとして許されない。ひとりが死んだら、残ったもうひとりは生きていないといけない。どんなに死にたかろうと、そんなことには関係なく。彼女はドアを開けて、死の天使を呼んだ。死の天使は、ふつうなら、呼ばれたらすぐやって来る。だがその晩は、なんというか、天使はジョージア州のアトランタの航空機事故にてんてこ舞いで、彼女の声に耳を貸せなかった。彼女は死ななかった。激痛にのたうちまわり、血を少しずつ流し、しまいに睡眠薬で意識が朦朧となって倒れた。病院で目が醒めても、なぜそこにいるのかわからなかった。
 彼女の祖父は存命していたが、入院中で死期が近かったし、親戚はほかにいなかったので、見舞いにいったのはぼくひとりぐらいだった。ひとりぼっちでベッドに横たわり、すべてをあきらめ切った者特有の、快美ともいえる絶望にひたりこんでいた彼女は、退院するまで毎日ぼくが見舞うと、ひどく感激してくれた。
 その後、彼女は長期間、外国にいっていた。そこでなにをしてたのか、たしかなことはわからない。帰国してから一度会ったが、それきり連絡をとりあうこともなかった。
 アパートとコーヒーショップの真向かいにぼくは立っていた。車がいきかい、暑くて暑くて、背負った雑嚢のせいで背なかを汗が伝い落ちた。ちょうど、その時、首相が撃たれた。だが、ぼくは知らなかった。

 通りをわたってコーヒーショップに入った。日陰になっていた。天井で大きな扇風機が2機まわっていた。雑嚢を横に置いてテーブルについた。巻き毛をたばねた、太い足の、自分はブスだと思いこんでいるせいで、たしかにちょっとブス顔になっているウェイトレスがきて、飲みものはどうするか、と聞いた。いつなんどきでもむっとしてやるという態度だった。自分をブスだと思いこんでいる女の子というものは、もし美人だったらダンスに誘ってもらえるのに、といつも思っているものだ。アイスコーヒーを注文すると、その注文に慣れているのか、ウェイトレスは黙って受けた。

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