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首相が撃たれた日に

2

©Michal Endo Weil

「ディナはいる?」とぼくは聞いた。
「ええ、上に。アパートの方に。すぐ、おりてきます」
「そう。ありがとう」
 ウェイトレスが向きをかえて去った。きいんと冷えたアイスコーヒーの大きなグラスが運ばれてくると、ぼくはごくごく飲みほし、足を伸ばしてくつろいだ。大きな扇風機が音もたてずに単調にまわり、気持ちのいい風を送ってきた。
 目をつむった。そして目をあけると、目のまえに彼女がいた。微笑んでいた。
「やあ、ディナ」
「こんにちは」そう言って、彼女はぼくの髪にふれた。「元気だった?」
「まあね」
「家から追いだされたの?」雑嚢を見やって聞き、ぼくの前に腰をおろした。
「追いだされるような家はないんだが、あちこちで追い立てをくらっちゃって」
 彼女はぼくを見つめた。綻びたショートパンツに、大きめのシャツ。元気そうだった。どうして、なかなか、いい顔をしている。部屋を借りたい、とぼくは言った。それから、ひょっとして人手をさがしてないかしら、と丁重に聞いてみた。ひょっとしてさがしてるのよ、と彼女は言い、ぼくたちは取り決めた。仕事をする代わりに、住居と食事と少しだが金をもらうことになった。

 部屋にあがった。ぼくのとよく似た取り決めで、ディナからアパートの管理を任せられている老人がいた。彼女の祖父の親友だった人で、いくあてがないと言われてディナに泊めてもらっていたんじゃないかと思う。老人は、年季のいったコミュニストだった。ぼくもディナの弟に会いにきていた頃から見知っている。その頃は、熱心で精力的で、いつでも議論に応じる用意があったのに、いまは疲れはてて病気がちで、苦渋に満ちていた。マットを運んでドアを開け、鍵を渡してくれた。ドアノブに彼の苦渋が残った。ぼくはノブをそのままにして、ドアを閉めた。部屋はとても小さかったが、清潔できちんとしていた。荷物を片づけてから、下におりて厨房とテーブルを手伝った。
  夜になると、ぼくは部屋にあがり、シャワーを浴びて外に出た。小さな映画館の横の暗やみに向かった。そこなら、誰にも見られずにゆっくり腰をおろして、行き来する人を眺められる。ぼくは長いこと座っていた。たしかに、人が行き来していた。ウォッカの小瓶を持っていたので、飲んだ。時が過ぎた。ぼくは神と話そうとしたが、神は返事をしてくれなかった。だから、すべていいようにやってくれ、あんたを信じているからな、なにがあっても、ぼくはあんたの味方なんだから、と言うにとどめた。人生について考えるには十分酔っ払い、まだ酔いつぶれずに動ける状態で、ぼくは立ちあがると、部屋に戻った。

 その次の日は早起きして、コーヒーショップで働いた。気のきいた仕事で、きつくはなかった。感じのいい人たちと、退屈な仕事をする、ぼくにはどうでもいいことだった。夜になって店を閉めると、疲れた。部屋にあがってシャワーを浴び、そのまま眠り込んだ。目が醒めると、11時だった。ぼくはベッドの上にすわりこんだ。隣の部屋から、アパートを管理している老コミュニストの泣き声が聞こえてきた。さびしい、ひっそりした泣き声だった。
 ぼくは下におりた。真っ暗だった。厨房にはいってアイスコーヒーをつくり、ホールの端の明かりをひとつつけた。テーブルのひとつにディナがいるのに気がつくまで時間がかかった。ディナは、ぼくをじっと見ていた。彼女の前には、半分空になったドライベルモットの瓶とグラスがあった。青いベルベットの上着を着て、黙ったまま、ぼくを眺めている。ぼくはコーヒーを手にしたまま立っていた。
 彼女が言った。「いらっしゃいよ。お座りなさいな」
 ぼくは言われるままに、座った。
「コーヒーなんて捨てちゃいなさい」彼女はぼくのコーヒーを取ると、後ろのテーブルに置いた。そして、どこからかグラスを出して、ベルモットを注いだ。
「いっしょに飲んでよ」そう言って、ぼくのグラスにカチッとグラスをあわせた。
 ベルモットを飲みながら、彼女を眺めた。酔ってはいない。落ち着いた風情で、もの思いに沈んでいる。彼女は、ちらっとぼくを見て、にっこりした。
「おいしく飲まなくちゃ、ね」立ちあがると、厨房にいき、片手に塩漬けのオリーブの実の大きな缶を、もう片手にジンの瓶を抱えてあらわれた。缶の上には、氷の入ったプラスチックの盆がのっている。最高だ。彼女はオリーブの缶を床に置くと、テーブルを片づけ、グラスに氷を入れ、ジンを1/3、ベルモットを2/3、注いだ。オリーブの実を指でつまみあげてグラスに落とすと、指でくるくるまわし、オリーブがグラスの底に落ちるのを待った。

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