首相が撃たれた日に

©Michal Endo Weil
「いいわ」
「どこで、そんなこと習ったの?」
「ニューヨークにいたとき、小さいバーをやってる男と知りあったの。そこで働いてたのよ」
「知らなかったな」
「いま、知ったわけね」
ぼくたちはグラスをかたむけた。彼女は黙っていたが、しばらくして言った。
「部屋の様子を見にいく暇がなくてごめんなさいね」
「万事うまくいってるよ」
「よかった。でも、ねえ。アブラハムがいつもはアパートのほうを見てるんだけど、このところはあんまり、なのよ」
彼女は手をふって「あんまり」のところを強調した。
「アブラハムって、コミュニストのじいさんか?」
「そう」
また、飲んだ。
「彼、どうしたの? すっかりまいっちゃってるみたいだけど」
ディナはマティーニを少し口に含むと喉にすべらせ、ほっと椅子によりかかった。
「コミュニストって、名誉ある敗北を知らないのよ。なんでも自分のせいにしちゃって、それで、しまいには、いつも敗北」
「どういうこと?」
彼女はまたひと口飲んで、グラスを空けた。さっきと同じ手順でグラスを満たす。
「あの人たちが自分たちに課してることをごらんなさいよ。自分たちで世界を変えようとしてるでしょ。多かれ少なかれ、ね。神に勝とうとする。あの人たちときたら神を憎んで、それを大声過ぎるぐらいに言い募るの。そうなると、神もお返しに彼らを憎む。ねえ、しあわせなコミュニストに会ったことある? あの人たちは革命に失敗するか、よしんば成功しても、今度は仲間内で殺しあう。どっちにしても、夢はおしまい」彼女は飲んで、ぼくを見た。
「お飲みなさいよ。なんのためにここにいるの?」
「コミュニストについて学ぶため?」
「いいえ、飲むためよ」
彼女は空になったぼくのグラスにジンとベルモットを注ぐと、半分ほど減った自分のグラスをジンで満たした。あふれてこぼれそうなグラスをそうっとひとすすりしてテーブルに置き、後ろにもたれた。
「ずいぶん、ばかげてるわね。神に勝とうなんて。そういうふうに考える人間って、いつも、しまいには人生に見放されるのよ。そうなると、打ちのめされて、小さな子どもみたいに泣きだす」口をつぐむと、また、飲んだ。
「つづけて」ぼくは言った。
「つづけるって、なにを?」
「神について」
「神についてわたしが知ってることは、これでぜんぶ」
「じゃ、コミュニストについて」
「コミュニストについて知ってることも、これだけ」
彼女はぐっと身を乗りだすと、ぼくの目の中をのぞきこんだ。自分自身のまなざしの深さを測ろうとするかのように。
「それなら、アブラハムについて」
彼女は後ろにもたれた。
「かわいそうなアブラハム。死にそうで、それを気に病んでるの。まるで虚脱状態。人間て、いつかは死を知るものなのにね」ひと口飲んで、グラスを見つめた。「彼はこの国をつくった人たちの仲間だった。イスラエルの地にユダヤ人の国家をつくることができるのなら、死にさえも、勝てるって思った。彼の、子どもじみた夢の国家は実現し、死は、永遠に生きようとする彼をあざ笑った。そして、何回か生き残るチャンスを与えたのよ。そんなの、意味ないのに」
「だれだって、死にたくない」
「あきらめることを学ばなくちゃ。そういうものでしょ」
ぼくたちは黙りこんだ。1分か2分して、彼女をぼくのほうに頭をあげると、「なんてこと、しゃべってるのかしら」と言った。
ぼくは笑みを浮かべ、手を伸ばして彼女の髪にさわった。
「空論にそそのかされたの?」彼女がほほえんだ。
「ああ、すごく」
彼女はぼくを見つめた。それからかがみこむとキスしてきた。彼女の舌は甘いアルコールの野性的な味がした。ぼくは手を伸ばして彼女の顔をはさみ、長いキスを返した。彼女はゆっくり椅子に戻った。ぼくたちはじっと見つめあった。
「だめ」
いままで耳にしたうちで、いちばんやさしく、いちばん断定的な「だめ」だった。ふるえが走った。彼女の頬をなでた。彼女は静かにほほえんでいたが、急に、違う女性に見えた。目はぼくのほうを向いていたが、ぼくを見ていなかった。ぼくの後ろを、遠いところを凝視していた。テニスコートにいるはずが、突然、ボクシングのリングにいるのに気がついたみたいな感覚に、ぼくはおそわれた。ディナは彼女自身に閉じこもって、ぼくは余計者だった。おやすみを言って、ぼくは上にあがった。アブラハムの部屋の前を通った。ドアが開いていた。アブラハムが中からぼくをにらんでいた。会釈して通り過ぎようとすると、呼びとめられた。
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