首相が撃たれた日に

©Michal Endo Weil
「おい、来いよ、若いの。ちょっと来てくれ」
ぼくは、後もどりした。
「あの、おれのことをなんて言ってた?」
「えっ」
「おれのことをしゃべったろう。なんて言ってた?」
ぼくは肩をすくめた。
「なら、いいよ。どっちみち、ぜんぶ聞いたから。階段に座ってな。おたくらの話を聞いてたんだ」
ぼくは黙っていた。
「コミュニストについての話だが、ありゃ、あの娘が考え出したことじゃない。アメリカ人がひとり、ここにいたことがあってな。そいつの受け売りだ。あの娘はそいつとちょっとあった。意味はわかるだろ」
「だったら、なにをしゃべってたのか、わかってるんじゃないですか」
「ああ、だけど、ぜんぶ聞こえたわけじゃない。おたくら、小声でしゃべってたから。あの娘、おれのことをなんか言ったか? 世間話じゃなくて、おれについて?」
ぼくは肩をすくめた。「いや」
コミュニストはうなだれた。
「あの娘は、ときどき、なんでも知ってるように思いこむ。なぜ、おれがこんなふうなのか、なんで使いものにならん道具みたいなのか、わかってるなんて思っとる。あの娘になにがわかる。なにもわかっちゃない。だがおれはぜったいそんなこと、あの娘には言わんよ」
老人は思いつめていた。灯が顔に当たった。なんだか胸を衝かれる、半分は気落ちしたきびしい表情、そしてもう半分は泣き出しそうなほどにやわらかな表情だった。
「なぜ?」ぼくは聞いた。
「なぜ? なぜかって? なぜ、あんたに言わなきゃならん? あんたは子どもだ。なにもわかっちゃいない。あんたらは、みんな子どもだよ。なんでもわかってると思ってるが、なんにも知らんのだ」
ぼくは立ったまま、老人を見つめた。彼はいまにも破裂しそうだった。部屋は小さかった。破裂しそうな彼に似合わないほど、小さかった。ぼくは挨拶していこうとしたが、呼びとめられた。
「こっちに来てくれ、若いの。来てくれ」
ぼくは戻った。
「なぜなのか教えてやる、ぼうず。なぜだか話してやる」だが、なにも言わなかった。言いたいのに、彼のうちで押しとどめるものがあって、言葉が出てこないのだ。
ぼくは言った。「なぜです?」
「あの娘を愛しているんだ。それが、なぜの答だ。やっと、わかったか? いま、わかったか、おい」コミュニストは黙り込んだ。それからぼくを見ないで言った。「行け、いっちまえ」
ぼくは部屋に戻り、服のままベッドに横になった。15分ばかりすると、ドアをそっと叩く音がした。ぼくは立ってドアを開けた。
「ちょっと入ってもいいかな?」
「どうぞ」
彼はなかに入ると、ドアを閉めた。
「なあ」言葉を選ぶのがむずかしいようだった。「なあ、おれがいったことは他言無用だ。もちろん、あの娘にはだ」
「わかりました」
「いいな」彼は落ちつかなげに、自分のまわりに目をやった。「あんなふうにしゃべるんじゃなかった。どうかしていた」
「大丈夫ですよ」
「あの娘に知られたら、大丈夫じゃない」じれったげに言うと、ぼくの方に目をあげた。「頼む。誰にも話さんでくれ。年寄りだってのに、孫みたいな娘に恋いこがれてるだけじゃない。あんた、おれが知らないなんて思ってるんだろうが、おれはあの娘のお情けで生きてるんだ。愛してるなんて、あの娘に知られるのだけは、な」
「わかりました」ぼくは言った。
彼は深く息を吸いこんで、言った。
「何の望みももたず、こうやって毎日あの娘を見てるだけならいいじゃないか、そう割り切りゃいいじゃないかと、あんた、思ってるんだろ。もう5年もあの娘を愛してるのに、誰にも、言ったことはなかった」
「なぜ、ここから出ていかないんです?」
PAGE







